悪夢の日

――堕ちていく。
真紅にまみれた我が同胞たちが。
永き戦いの末、ようやく掴みかけた勝利という名の栄光。自分達の掲げる大義は正義であるという自信、矜持。平定が約束された明日への期待。
それらすべてが、一瞬にして滅んだ。
赤い雨のごとく大地に叩きつけられていく者達は、何が起こったのか理解する暇さえなかっただろう。
実際、直撃を免れた自分ですら、理解するのにはかなりの時間を要した。
全身を槍で貫かれたような痛みが右腕に走る。
たまらず膝をついた。見れば、右肘から先端が綺麗に吹き飛んでいる。だくだくと流れ落ちる赤い生命の水が、自分の残された時間の短さを物語る。
脳髄まで麻痺しそうな激痛に歯を食いしばり、顔を上げる。
血と脂汗で滲む視界、遥か遠く、積み上がる亡骸の頂きにひとりの男が立っていた。
男、と呼ぶのはある意味間違いだ。『あれ』には性別はない。人型に模した純然たる意思の塊。瘴気の坩堝。
男はしばらくその場を動くことはなかった。だがこちらの視線に気づいたのだろう。
ゆっくりと、こちらに振り向いた。
男はにこりと笑うと、その場から姿を消した。次に気づいた時には、男は自分の目の前に立っていた。
「あなたは避けられたのですね。まだ創られたばかりで魔力のコントロールが上手くいかずすみません。とにかく、よかったです」
そう言って魔族には似つかわしくない程の柔らかい笑みを見せて、ぺこりとお辞儀をした。
「獣王ゼラス=メタリオム様麾下、獣神官ゼロスといいます。以後、お見知りおきを」
その台詞をきき、総毛立った。全身の毛穴が開き、どっと冷たい汗が吹き出した。そして理解した。
今まで自分たちが相手にしてきた魔族は、下級の、さらにその下の存在だったのだ。
たとえ絶大な魔力を有する魔族といえども、我らが力を合わせれば打ち勝つことが出来る。そう信じて、ゆくゆくは黄金竜の長老にという期待にも折れることなく幾日も幾月も戦い続けてきた。
だがその努力も信念も、すべては幻想だった。
己の理解の範疇を簡単に凌駕してしまった圧倒的な力。禍々しいほどの『負』をその内側に有した生命体。
柔和な笑みの裏側に隠れた絶望にも近い魔力を視、ギリギリで保っていた自分の矜持は一気に崩れ落ちた。
(こんなものを相手にしていたのか……我らは……)
決して流れ出た血のせいだけではない。世界が霞み、張り詰めていた気もすべてが緩んだ。ゆっくりと、体が大地へと倒れ――
(……?)
いつまでも固い土の感触が訪れず、閉じかけた瞼をもう一度開く。目の前には神官服。頬に触れるのは布とさらりと滑る紫の絹糸。
「これはいけません。かなり、消耗されていますねぇ」
低い声が耳から滑り込み、それと同時に右腕に激痛と灼熱感が走った。
「るぐぁぁぁぁぁっ!」
反射的に出た咆哮と同時に、支えられていた獣神官の腕を振り払い、後退するように大地に転がった。
血が滲むほど唇を噛み、肉の焦げるにおいのする右腕に焦点を移す。じくじくと焼け焦げる断面からは、一滴の血も流れていなかった。
「とりあえずはそれで大丈夫でしょう」
何事もなかったかのように、ゼロスはそれまでと変わらない笑みを浮かべていた。
「なぜ……なぜ助けた!?」
眉間に力を入れ、渾身の力を込めて相手を睨む。
ゼロスは不思議そうに、こくんと首を傾げた。
「なぜって……助かりたくなかったんですか?」
「魔族《おまえ》が神族《わたし》を助ける道理はないと言ったのだ」
「まあ、確かにそんな義理はありませんね」
そう言い、魔族はくすくす笑う。
「でも、あなた方は僕たちと違って『生』を望むものなのでしょう?」
流暢に言葉を滑らせながら、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
「たとえ理不尽な戦に巻き込まれても、愛する家族や仲間を無残に失っても――」
ゼロスは自分の側まで近づくと、同じように片膝をつき、しなやかな手つきで焦げた右腕をなぞりながら、
「たとえ、魔族に命を救われても」
そう言って、わたしの瞳を覗き込んだ。
その瞬間、体に残ったわずかな血が音を立てて凍りついた。ぞわぞわと、おぞましいものが背骨を這い登る。
私はその時、ようやく理解した。
魔族に善意などあるはずがない。
奴は喰っているのだ。自分の内側から溢れ出す恐怖を、屈辱を。
生きていなければ、恐れることはできない。憎むこともできない。
自分の瞳を通して、わたしの精神の裏側に隠れた負の感情までも余すことなく貪り尽くす。
これを悪魔と言わずして、他の何と例えようか。
無意識に震える身体を必死に諌め抗うも、一心に注がれる視線からは逃れられなかった。
妖しく濡れ光る魔族の瞳は、恐ろしいほどに冷たく――そして美しかった。

錆びついた時の流れが再び動き出したのは、眩い閃光が空を灼いた時だった。同時に、巨大な魔力のひと柱が空を穿つ。
「どうやら、我が主の準備が整ったようですね」
天を仰ぎ、ゼロスはわずかに口角を上げた。
視線が外れ、自分もハッと我に返る。
「それでは、僕はそろそろ失礼します。お達者で、黄金竜殿」
「……ミルガズィアだ」
立ち去る魔族の背中に、自分の名を投げた。なぜそんなことをしたのか、自分でもわからなかった。そんな必要などないのに。二度と会いたくもないのに。
聞こえたのかどうかは知らない。ただ姿を消す前に、わずかに振り向いた口元が笑っていた。


この先世界にどんな恐怖が訪れようと、わたしは今日という日を忘れはしない。

目の当たりにした魔族の脅威――
仲間の無念――
危ういほどに美しく揺れる魔の瞳――

忘れたい記憶を魂に刻まれ、それでもなおわたしは生きる。
あいつの言う通り、わたしは『生』を望む者だから。生きとし生けるものが生きようとすることこそ、無くしてはならない己の矜持だから。
それがたとえ、魔族の掌の上だったとしても――


〜fin〜
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