在りし日の願い

世界は静けさを取り戻しつつあった。
だが人類が平穏を望むその裏でねっとりと蠢くのは、奪った者、奪われた者の尽きること無き怒り、憎しみ、嘆き、悲しみ、絶望。疲弊した世界から今もなおとめどなく溢れ出る負の感情は、好む好まざるとに関わらずこの身へと集結する。それを拒絶することもなく、むしろ歓迎とばかりに食む浅ましい自分を内から見つめ、あぁ、本当にバケモノになってしまったのだと認めたくない現実をあらためて認識した。
「獣神官ゼロス−−といったか。こたびの働き、ご苦労であった」
大気を震わせるはずの振動は、大地に繋ぎ止められた分厚い氷壁に遮られ相手に届くことはない。魔力の込められた呪縛の隙間をぬい、眼下で跪く黒衣の神官に思念で語りかける。
「畏れ多いお言葉、ありがとうございます」
獣神官は伏せていた顔を上げ、心にもない薄らな笑みを浮かべた。
−−人間臭い顔だ。実に、獣王の傑作品らしい。その性格も、その実力も。

水竜王を逃がさないための大結界が完成するまでの陽動と撹乱。それだけでよかった。だが、迫り来る黄金竜《てき》の軍勢を、この獣神官は一人で壊滅に追い込んだ。
魔王となった今ではどうということではないが、昔の自分であったなら、純魔族の実力に驚愕し同時に好奇の瞳を輝かせたことだろう。そして新しい知識を用い、趣味だった魔法道具《マジックアイテム》の精製に寝る間も惜しんで没頭したはずだ。意識を蝕む赤い闇が、自分の殻に覆い被さりじわじわと侵食しているというのに、その光景だけはありありと想像できる。そしてその景色の片隅には、太陽のように眩しく輝く長い金の髪が、こちらを振り向くたびにふわりと揺れる。

内に閃く金の光に、赤い闇がぴくりと震え、身体が強ばるのを感じた。しかし、仮初と化した体は固い氷に閉ざされ指先ひとつ動かすことは叶わない。精神世界面の本体も、張り巡らされた神の呪縛に力を振るうこともできず、ただそこに存在するのみ。

もう、わたしはわたしではない。いま語っているこの思念ですら、元のわたしであると言えるのかどうかも疑わしい。疑念に満ちた意識を奮い立たせ、頭から首、肩へと意識を巡らせ、そして両腕に走らせる。
緩慢な感覚が両の手首にたどり着いたところで、普段とは違う違和感に気づく。そしてその正体を思い出し、意識は再び回想へと飛ぶ。

一度没頭すると、食事はおろか睡眠すらも忘却の彼方に吹き飛んでしまう。そんな不養生を、よく彼女に怒られたものだ。命あっての物種だと、いつもの口癖を叫びながらそれでも彼女は実験中もわたしのそばにいてくれた。材料の買い出しと実験以外に、研究室から出ることは滅多にない。そんなわたしのそばにいて楽しいのかと、一度尋ねたことがある。返事は返ってこなかったが、柔らかく澄んだ青の瞳が楽しそうに揺れているのを見、それがすべてだと理解した。
『この魔法道具が完成したら、一緒に旅に出ましょ』
ある日突然、彼女はそう告げてきた。
『あなたと一緒に、世界を見たいの』

世は戦乱。不穏な気配が世界を漂い、誰のものともわからない嘆きの風が焦土に吹き荒れる。そんな中で楽しい旅路が歩めるとは到底思えなかったが、わたしは快く了承した。わたしの乱れた生活のことについてはあれこれ口うるさく文句をつけるが、彼女が自分の望みを口にしたのはその時が初めてだったのだ。
わたしには、それが嬉しかった。
自惚れかもしれないが、自分はそれなりに魔法が使える。彼女と自分の身を守ることぐらい出来るだろう。
不安はなかった。それよりも、彼女が照らしてくれた新しい未来《みち》を歩む期待が自分の高鳴る胸を破裂させてしまうのではないかと、そっちのほうがよっぽど心配だった。
彼女の手伝いも得て、一心不乱に作り上げた最高傑作。二人の想いが詰まった結晶体は、彼女を守るために使おうと自分で身につけた。

だが、それはもう無用の長物となってしまった。
期待していたものとは真逆の現実に、もうそれは必要ない。他者の力を借りることも出来なければ、守る相手もいない。
『一緒に世界を見ましょう』
両手首の違和感に触れる度に、彼女の叶わなかった願いが守れなかった笑顔がわたしの意識を震わせる。
叶えてあげたい−−彼女がこぼした唯一の願いを。

意識を体の四方に傾け、それに応えるように赤、蒼、白、黒の宝玉が淡い光を放つ。魔力干渉をほぼ断ち切られた空間にある小さな時空の歪みを縫い合わせ−−念じると同時に、身につけていた宝玉は、いまだ眼下でかしずく獣神官の足元に四回硬い音を立て落ちた。
「……これは?」
「魔血玉《デモンブラッド》。四界の魔王の力を借り魔力容量《キャパシティ》を増幅させる」
「はあ……」
眉根を寄せつつ、ゼロスはそれらを拾い上げる。
訝しむのも無理はない。己の魔力《ちから》のみを拠り所とする魔族にはまったく意味の無いものなのだから。
「それをおまえに授ける」
そう告げると、そばに控えている獣王の眉がぴくっと跳ね上がった。

−−これだから、感のいいやつは困る。
部下の武勲を称えて−−本意はわからずとも、それが建て前であることを見抜いたのだろう。だが、余計な詮索をするようなやつではないことはよく知っている。
自分が動けないなら、せめて彼女と作ったそれだけはこの呪縛の外へ。意思のない物質に託すのも滑稽な話かもしれないが、それでも、わたしたちがみることの叶わなかった世界を代わりに見てきてくれたら−−。

この忌々しい氷の牢獄から解き放たれたあかつきには、わたしは世界を滅ぼす。そのことに躊躇いはない。だからせめてそのときまで、彼女の願いを、わたしの願いを世界へ解き放つことぐらい、許されるはずだ。
そうとも。ちっぽけな人間ごときのささやかな願いまで、この呪縛に甘んじる必要も義理もないのだから。

いつまでこの意識が保てるかわからない。いつかはすべてが蝕まれ、わたしが生きていた証すらなくなるだろう。だが、赤き闇がわたしのすべて喰らいつくそうとも、この内に宿る温かく眩い金の光だけは、たとえ深淵なる闇の中でもその存在《ちから》を失うことはない。そしてこの光こそ、わたし−−レイ=マグナスが生きているという、唯一の証なのだから。

〜fin〜
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