二つの約束

「ばあちゃん、ただいま」
 いつもと変わらぬ明るい口調、しかし、どこか哀愁を帯びた声音でガウリイは声をかけた。
 晴れ渡る青空と、眼下に広がる白い町並み。吹き抜ける風は麓にいる時よりも強く、栗色と金色の髪を大胆に攫っていく。 丘の上の見事な深緑樹は、眼下の町を見守る主のように悠然と鎮座している。豊かに生い茂る緑葉は、青年の声に応えるようにざわざわと優しい音を立てる。
「ばあちゃん。こいつ、リナ。一緒に旅してるんだ」
「......こ、こんにちは......」
 ガウリイに紹介され、少し気恥ずかしそうにリナも声をかけた。
 年月を重ねた立派な巨木の小枝で羽を休める鳥達が、鈴音のように囁きあう。
 ガウリイは巨木の傍らにはめ込まれた石板の埃土を手で丁寧に払い、荷袋の中からガラスの小瓶を取り出した。深いルビーを思わせるような液体が瓶の中でゆらゆらと輝く。 その蓋を開け、ゆっくりと傾ける。零れ落ちた真紅は滑らかな石板を伝い、陽の光を受けキラキラと輝きながら大地に染み込んでいく。 ガウリイは空になった小瓶を石板の前に置き、自身もその場に腰を下ろした。リナもそれに倣い、ガウリイの横にちょこんと正座した。

静謐な時間が過ぎていく。二人はしばらくの間、言葉を交わさなかった。二度と戻らない懐かしい日々を思い出しているのか、澄んだ青い瞳は憂いに揺れている。
リナはその瞳と目の前の石板とを交互にみていた。いつも明るく前を向いている彼の、そんな瞳を見るのは初めてだった。新鮮さと、少しのいたたまれなさにリナの鼓動はやや駆け足でリズムを刻む。
「ばあちゃん、葡萄酒よく飲んでたんだ。きっと、好きだったんだろうな」
「......そうなんだ」
 沈黙の中、先に口を開いたのはガウリイだった。いつもと変わらない穏やかな口調に、リナは少し安堵した。そして目を閉じ、目の前の小さな石墓にそっと両手を合わせた。


「行きたいところがあるんだ。付き合ってくれるか?」
 リナの故郷ゼフィーリアを旅立つとき、珍しくガウリイが次の目的地を提案した。あてのない気ままな自由旅。リナに異論があるはずもなく、二人はガウリイの導くままこの土地へやってきた。  ゼフィーリア程ではないが、そこそこ賑わいをみせる町。商人の流暢な謳い文句、賑やかに笑い駆け回る子供。そんな温かな喧騒をすり抜け、ガウリイが案内したのは郊外の丘の上にある小さな邸宅だった。 ひっそりと佇む、小振りだがシンプルでセンスの良い住居。しかし、住人がいなくなってだいぶ経つのか、木戸は雨風に晒され朽ち、あちこちに蜘蛛の巣がはり、庭の雑草は草原のように自由に伸びている。 その建物の向かいに立つ巨木の根元。そこには、ガウリイの祖母が眠っていた。

 リナはガウリイの過去を知らない。興味がないわけではないが、人には言いたくないことの一つや二つくらい当然ある。無論、ガウリイにも。それに、知ったところで所詮それは過去。 人の沼を根掘り葉掘り問い詰めたところで、現在≪いま≫を生きる自分たちにとってプラスになるものは何も無い。リナはそう考えていた。だからこそ、ガウリイが自分をこの場所へ連れてきてくれたことは、 リナにとって心が張り裂けそうなくらい、嬉しかった。
「......おばあさんは、どんな人だったの?」
 リナは少しだけ踏み込んでみた。ガウリイは顎に指をあて、うーんと唸る。
「一言で言えば、元気なばあちゃん、だったな。親は気づいた時にはもういなくて、ばあちゃんが一人で俺を育ててくれたんだ」
 ガウリイは手近に咲いていた白い花をひとつ摘み、石板の上にそっと置いた。
「ちゃっきちゃきでさ、男相手にも負けないぐらい口が強くて......リナと一緒だな」
 二カッと笑うガウリイに、リナは少しだけ目端を緩ませた。
「......でも、ある日病気で倒れちまったんだ。気張ってた分、実は疲れてたんだろうな」
 ガウリイはもう一本同じ花を根元から手折り、先程の花の横に並べた。
「治すには特別な薬が必要だって言われて......それが法外な値段でさ。だから、一番手っ取り早く金が稼げる傭兵になったんだ。でも、上手くいかないもんだよな。 それなりに剣術には自信あったんだが、上には上がいてさ......」
 青い瞳が揺れた。少し強引に摘まれた三本目が、ガウリイの指先でくるくると弧を描き、花弁を揺らす。
「ようやく薬を買ってここに戻ってきた時には......もう、ばあちゃんはいなかった」
 リナは黙ってガウリイの言葉に耳を傾けていた。なるべく気持ちを沈めぬよう口調はいつもと変わらなかったが、じわりと滲み出る後悔と惜別の念は、痛いほどリナの心に突き刺さった。

 どう言葉をかけるべきか、リナは迷っていた。そもそも、恵まれた境遇で育った自分に声をかける資格があるのだろうか。
 リナがまなじりを下げていることに気づき、ガウリイは優しい笑みを浮かべた。
「ありがとうな、リナ」
「えっ......」
「ゼフィーリアに......おまえさんの実家に連れてってくれて」
 リナの胸がズキッと痛む。
「おまえさんが久しぶりに帰ってきたってのもあるけどよ、リナの父ちゃんや母ちゃん、姉ちゃん達の三日三晩のどんちゃん騒ぎに俺も混ぜてくれて......すげぇ嬉しかった。嬉しかったし、こんなあったかい家族、俺も欲しいなって、心の底から思ったんだ」
 ガウリイの言葉に、彼の無償の笑顔に、リナは目頭が熱くなった。もしかしたら彼の心の傷をえぐってしまったのかもしれない。そんな憂いを一瞬にして吹き飛ばしてくれた彼の優しさに、リナは震えた。彼女の人生の中で一番の歓喜の波が、高鳴る心に押し寄せた。
「葡萄酒も美味しかったしな」
 照れくさそうにそう付け足したガウリイに、リナはへへっと笑った。
「......また、飲みに行きましょ」
「ん」

 穏やかな風が、二人の間をすり抜けた。町の喧騒もここには届かない。聞こえるのは、揺れる草花の囁きと、丘の主の生命の脈動。
「......ありがとね」
 次に感謝の意を示したのはリナだった。
「......ここに連れてきてくれて」
「あぁ。――約束だったからな」
 ガウリイは視線をリナから石墓へと移した。
「約束?」
 疑問符を浮かべるリナに、ガウリイは首を縦に振った。
「ばあちゃんがな、口を酸っぱくして言ってたんだ。『女子供には優しくしろ』」
 そう言えばそんな台詞を出会った頃に聞いたことがあるなと、リナは昔のことを思い出し小さく笑った。
「それと......『大切な人ができたら連れてこい』ってな」

 ――刹那、世界から音が消え、時が刻むことを止めた。この世界にいるのは、自分と横に座る相棒だけ。流れたゆたう時の一瞬を切り取られたかのような、そんな幻とも思える錯覚。リナは目を見開きガウリイを凝視した。
 ガウリイは、ただ微笑んでいた。その眼差しはどこまでも優しく、広く、深い。自分のすべてを受け止めてくれると確信してしまえるほどの温かな双眸。
 リナはガウリイの言葉を頭の中で反芻し、頬を赤らめた。そして目を細め、そっと、ガウリイのたくましい腕に身をあずけた。汗と埃が混ざった、少し土くさい匂いが心地よい。
「......おばあさんに、嫌われないようにしなくちゃね」
「大丈夫さ。リナとばあちゃんなら、けっこう馬があうと思うぜ」
 ガウリイの軽口が今はとても愛しくて、リナはへへっと笑いさらに頬を紅潮させた。

「......ガウリイ」
「ん?」
 リナは体を伸ばし、金糸のようになめらかな髪をかき分け、ガウリイの耳にそっと囁いた。
 次の瞬間――目を見開いたのはガウリイの方だった。一瞬の間を置いて、青い瞳が熱く揺れる。そしてすぐに、その端正な顔が破顔した。
「......約束よ?」
「――あぁ。......約束だ」
 今まで一緒に過ごした中で一番の満面の笑みを浮かべるガウリイを見、リナも思わず破顔した。くしゃりと頭を撫でる手は、いつもよりも大きく、そして温かい。子供扱いだと嫌がっていたその行為に、リナは心の底から安らぎを感じた。

 天高く輝く太陽が、巨木の枝葉をすり抜け二人に注ぐ。
 古き約束と、新たに結ばれた約束。それを刻むかのように、互いの左手首で揺れる翡翠が一際眩く光輝いた。
 一陣の風が吹きゆき、大樹の葉がさわさわと揺れる。悠然と佇む巨木だけが、秘密の約束を交わし寄り添う二人を優しく見守っていた。

〜fin〜
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