花喰

がきぃぃぃん
静寂だけがひっそりと息づく深淵の森。肌がひりつくほど冷え込んだ空気に残響するのは鋭い金属音。二度、三度鳴り響くごとに空気は圧縮され、その場の緊張は高まり夜の闇はいっそう深さを増す。
鬱蒼とした森の木立の切れ間。白い銀状が疾り、二つの荒い息遣いが交錯する。
「なかなかやりますな、ゼルガディス殿!」
長い柄の先に両刃のついた重量のある斧を豪快に振り上げ、白ひげを豊かに蓄えた男はそう叫んだ。
「まだまだやれるさ!」
振り下ろされた斧をわずかに身をひねり紙一重でかわしながら、相手の男―ゼルガディスはそう語気を強めた。手にしたブロードソードをすくい上げるように一閃させ、
「ロディマスだって本気じゃないんだろ!」
そう言葉を発し、一歩出た左足で大地を踏みしめ、その勢いのままロディマスの懐へと切り込む。
やや太めの体格をハンデとも思わせぬ身のこなしで、ロディマスは一歩後退しながら、自分へと伸び上がる白銀に自身の獲物をすべらせ相手の切っ先のベクトルをずらす。
ゼルガディスは舌打ちをし、下に沈みこみながら力任せに剣を振り上げた。しかし相手の力を完全に流しきれず、逆に不安定な体勢のまま鍔迫り合いとなる。ゼルガディスはたまらず膝をついた。剣を握る腕の頼りない筋肉がぷるぷると震えてる。腕力も重量も老齢のロディマスの方が上だった。ついにのしかかる圧に耐えきれず、ゼルガディスの剣が鋭い音ともに真横に弾かれた。乾いた音を立て、ブロードソードが大地の上を滑っていった。
ゼルガディスとロディマスは同時に長い息を吐いた。途端、張り詰めていた空気が和らぎ息を潜めていた虫達が騒ぎ出す。
「まだかなわないな、ロディマスには」
ゼルガディスは「ははっ」と笑うと、両手を広げそのまま後ろへ倒れ込んだ。夜の空気に冷やされた大地が熱くなった体に心地よい。木々の切れ間から差し込む月の光が眩しく、ゼルガディスは反射的に目を細めた。額に浮かんだ汗が幾筋もこめかみや目頭に流れ落ちる。
「いやいや、ゼルガディス殿の上達ぶりにも目を見張るものがありますぞ」
斧を大地に突き立てそれを支えにもたれかかりながら、ロディマスは頬を緩めた。禿げ上がった頭がぴかりと光る。
「毎日の鍛錬の賜物ですな。こういう地道な努力こそが一番大切なのです」
「わかってるさ。もう聞き飽きたよ」
目に入った汗を手の甲でぬぐいながら、ゼルガディスは上体を起こした。
「さあ、今日はこれで終いにしましょう」
「ああ。先に戻っててくれ。俺はもう少しやっていく」
差し伸べられた手につかまり立ち上がりながらゼルガディスはそう答えた。ロディマスは眉を寄せ、
「……詰め込みすぎは感心しませんな。体はきちんといたわらねば……」
「それも聞き飽きた。大丈夫、無理はしない。今日のおさらいをするだけさ」
そう言い、ゼルガディスはニッと笑った。ロディマスはやれやれと息をひとつつき、「春の夜は冷えるから汗をきちんと拭くように」「鍛錬の後はしっかりと体をほぐすように」と念を押しながら踵を返し帰っていった。その後ろ姿を見送り、ゼルガディスはため息をこぼす。温厚で頼りがいのある人物だが、いつまでも子供扱いしてくるところがたまにキズだと胸中でぼやき、落ちた剣を拾いもう一度正面で構えた。先ほどのまでのロディマスとの攻防を思い出し、再度剣を振るう。
努力すればするだけ、己の力になる。ゼルガディスはそれを何の疑いもなく信じていた。
鍛錬を終え、ゼルガディスは屋敷へと戻ってきた。いい汗をかいたと充実感にひたりながら裏門の扉をくぐる。
先程の森は屋敷の裏手に広がっている。あたりに他の民家はなく、夜に派手な音を立てても迷惑にはならない。食料の買出しなどには不便な立地で屋敷の主に散々愚痴を吐いたりもしたが、こういう時にはありがたい。
住む人数に対して広大すぎる敷地に佇む屋敷はもの寂しさを感じさせるほどひっそりと寝静まっていた。建家の壁には蔦が這い、幽霊屋敷と呼ばれてもおかしくないほどの不気味さが漂っている。
通用口から屋敷に入るべく裏庭を通り抜けようとした時だった。ゼルガディスはひたりと足を止めた。
視界の端に、何かが映った。少し首をひねり、遠くへじっと目を凝らす。
門灯の明かりも届かぬ庭の一角にある大木の下に、男が立っていた。中肉中背の、闇に溶けてしまいそうな漆黒の法衣に身を包み、手に錫杖を持ち佇んでいるその男は、何をするでもなく、ただじっと屋敷のある一点を見つめていた。不審に思いながらもゼルガディスはその視線を追った。そこはこの屋敷の主の部屋だった。
言いようのない胸騒ぎを感じ、ゼルガディスはその男のもとへ向かった。
「――何か用か?」
恐る恐る声をかけると、男の顔がゆっくりとゼルガディスへ向けられた。その顔を見、ゼルガディスは思わず息をのんだ。
肩で切りそろえられた艶やかな黒髪、触れずともわかる白磁のように滑らかな肌、そしてその双眸にはアメジストのように輝く妖美な紫の瞳。その瞳が真っ直ぐゼルガディスを捉えていた。男は二コリと薄い微笑を浮かべた。人形のように美しく、そして背筋が寒くなるような笑みだった。
「いえ、特に用はありません。――あなたにはね」
刹那、一陣の風が二人の間に吹き荒れた。ゼルガディスはたまらず両腕で顔を覆い―次に目を開けた時、そこに男の姿はなかった。
ゼルガディスはしばらくその木の下を見つめていたが、やがて踵を返し屋敷の中へと入った。
まるで春の夜の幻のような出来事だった。だが、いつまでも耳に残る沼底のような冷たい声音に、ゼルガディスは鳥肌のおさまらない体を小さく震わせた。


あれから、夜の鍛錬に出かける度に、ゼルガディスは帰り際、例の木の下に目をやるのが癖になっていた。だが一週間、一ヶ月と経っても、あの男が再び姿を現すことはなかった。
「最近、鍛錬に励んでいるようですね、ゼルガディス」
低く貫禄のある声音が頭上から降って来、ゼルガディスは姿勢を変えぬまま顎を持ち上げ顔だけを上にそらした。振り注ぐ陽の光を背に柔和な笑みがゼルガディスをのぞきこんでいる。
「レゾ……治療は終わったのか?」
「ええ。みなさん満足していただけたようですよ」
ゼルガディスはレゾが纏う赤い法衣の陰からちらっと後ろをのぞき込んだ。真っ直ぐ伸びた街道の先には老若男女の人だかりが出来ており、皆一様にこちらに向けて両手を合わせ何度も頭を下げていた。
五大賢者と評される赤法師レゾは、たまに諸国を周遊しながらその類稀なる魔力を駆使し人々の救済にあたっていた。その実力と知名度に、目的の街へと向かう道すがらでもこうして救いを求める人の輪が出来上がる。
ゼルガディスもその旅に同行するが、彼に出来ることは何も無い。たまに実力を履き違えた盗賊に出くわすこともあるが、レゾの魔術で敵は簡単に一掃された。自分に出来ることといえば、治療を施している間、賊に襲われぬよう周囲に気を配ることぐらいだった。
この時も例に漏れず、街道の土手に腰をかけながら赤法師に群がる人の輪を遠くから見ていた。
「……俺の中にも、アンタの血は流れてるんだよな」
「いきなりどうしました?」
固く閉ざされた目を少し細め、レゾは可笑しそうにくすりと笑った。
「……俺にもアンタと同じ、とまでは言わないが、それでもそれなりの魔力容量≪キャパシティ≫があってもバチはあたらないと思っただけだよ」
ゼルガディスは唇を尖らせながらそう呟いた。
「そうだったら、もっとアンタの役に立てたかもしれないのに……」
「ゼルガディス……」
レゾは困ったように笑いながら、ふいっとそっぽを向いたゼルガディスの頬を左手でそっと包んだ。
「欲張りですね、わたしの可愛いゼルガディス。―おまえは賢い。そして努力家だ。その明晰な頭脳をわたしの為に活かしてくれればそれでいいのです。――それに……」
穏やかな声音が一転して急に低くなり、ゼルガディスは一瞬で重たくなった空気にぐっと息を詰まらせた。レゾの顔から柔和な笑みが消えていた。
「身の丈に合わない力を望むなど、おまえにはまだまだ早い」
突然の叱咤に空気が電流を帯びたようにぴりつき肌に刺さったが、その緊張はすぐに解かれた。レゾは再び口の端を緩め、
「さあ、行きましょう。このままのペースでは野宿になってしまう」
「……あ、ああ……」
歩み始めたレゾの後を、ゼルガディスは慌てて追いかけた。
しばらく時間を経ても、心臓の鼓動は収まりを見せなかった。自分の曾祖父か、もしくはそれ以上年の離れた賢者からは、たまにこうして優しく厳しく諭される時がある。ゼルガディスはそれは決して嫌ではなかった。彼の言い分は的を射ており、いつも正しい。だが今回ばかりは胸に広がる正体不明の靄(もや)を振り払う事が出来ず、ゼルガディスは胃の中に重い鉛を飲み込んだまま足を前に動かした。そしてもう一度後ろに視線を投げた。はるか後方では、人々はまだ頭を下げている。そしてまた自分の三歩先を颯爽と歩く、赤く広い背中を見つめた。
彼の手で治らぬ患者はいない。ただひとり、己自身だけを除いて。
大賢者と崇められる彼にも抱える闇があることを、その深さを、ゼルガディスはこの時知る由もなかった。


「少し休憩にしましょう、ゼルガディス殿」
「ああ、そうだな……」
肩を大きく上下に動かしながらゼルガディスとロディマスは武器を下ろし、呼吸を整え近くの木陰に移動した。森の枝葉に遮られているとはいえ、その隙間から射す強烈な陽の光に二人の体力はあっという間に削られた。
「おつかれさん」
その言葉と同時に、ゼルガディスとロディマスに向かって水筒が放り投げられた。
「ありがとう、ゾルフ」
ゼルガディスは礼を述べると一気に水筒の水を半分近く飲み、その残りを頭から被った。顔に伝い落ちる水を拭い、前髪を雑に後ろへなでつける。少し癖のある淡茶色の髪が陽の光に照らされきらきらと輝いた。
その様子を先に木陰で休んでいたゾルフはニヤニヤと笑いながら見ていた。
「……なんだよ」
「いや、最近ますます男らしくなったなーと思ってね」
ゾルフは露骨に向けられたジト目に構うことなくゼルガディスの全身を舐めまわすように見続けた。
「そんなに見るな、気持ち悪い」
「いやいや、ゾルフ殿の言う通り、確かにたくましくなられましたな。毎日鍛錬に励んだからでしょう」
自分の教えの賜物だと言わんばかりにロディマスはうんうんと頷きながら感慨に耽っていた。
二人の言葉を受け、ゼルガディスは自分の体をしげしげと見つめた。そう言われれば、頼りなく細かった二の腕は少しだが太くなり、憧れていた力こぶができている。散々今にも折れそうだとからかわれた細い胴回りにも適度な筋肉がつき、ゼルガディスは嬉しさをこらえきれず口元をにまにまと動かした。
「そーいやゼルガディス、隣街の薬屋の娘さんとはどうなったんだ? ちゃんと告白したのか?」
「ばっ……馬鹿を言うな! あの人はそんなんじゃない!」
「憧れてるだけじゃあダメなんだぞ? 美人さんはあっという間に誰かに持ってかれちまうからな」
「だからっ! そーゆーんじゃないって!」
突然出された色恋話にゼルガディスは耳の先まで赤くなりながらゾルフに怒鳴りつけた。
歳はとっても昔のままの甘いマスクは健在で女っ気を切らしたことのないゾルフはこの手の話でゼルガディスをからかうのが好きだったのだ。
「まあまあゾルフ殿。ゼルガディス殿にも考えがあるのでしょうから。……ちなみにいつお付き合いを申し込むのですかな?」
「頼むから、ロディマスだけは俺の味方でいてくれ!」
陽気な笑い声が明るい梢に響き渡った。
穏やかな時間だった。ゼルガディスはこの二人と鍛錬をするのが好きだった。こうして野次でからかわれることもあるが、自分から見ればロディマスの腕っ節は折り紙つきだし、レゾには及ばないがゾルフの魔道士としての腕もなかなかのものだ。幼少期に両親を亡くしてから、彼らに檄(げき)を飛ばされながらずいぶんと自分は成長したものだと思っていた。もうたとえどんな刺客が来ても追い返すことができるとゼルガディスは自信を漲らせていた。
陽が傾き始め、そろそろ屋敷へ戻ろうかという時だった。
風が止んだ。次いで、あたりから生き物の気配が消えた。不気味な静けさがその場を支配した。
ロディマスとゾルフは顔をしかめた。その二人の様子を見、ゼルガディスはごくりと生唾を飲み込んだ。気配を探るのは苦手だったが、ただならぬ何かが起ころうとしていることは全身に立った鳥肌が物語っていた。その時、ゾルフの口元が小さく動き始めた。その詠唱内容に、ゼルガディスはギクリとした。威嚇ではなく、敵を討ち滅ぼすための呪文だった。
異質な空気に三人の緊張と警戒が織り交ざり――刹那、
トトンッ
ゼルガディスの耳は木戸を軽く叩いたような音を捉えた。その瞬間、自分を守るように左右で構えていたロディマスとゾルフが、崩れるようにその場に倒れ込んだ。
「……えっ……」
何が起きたのか理解出来ず、ゼルガディスはその場に立ち尽くした。二人の安否を確認しなければと思ったが、足がぴくりとも動かなかった。ガクガクと笑う膝を鎮めようと両手で膝をつかんだ時、カサッと雑草を踏みしめる音が聞こえた。ゼルガディスは顔を上げ、そして絶句した。
いつの間にか眼前に立っていたのは、いつかの夜に見かけた黒い法衣の男だった。
ゼルガディスの心臓は跳ね上がった。いつも頭の片隅にいたその姿が急に目の前に現れ、ゼルガディスは頭が真っ白になった。
「――この前はどうも」
そう言い、男は人の良さそうな笑みを浮かべた。だが、その場違いなほど細められた糸目にゼルガディスは寒気を感じた。早鐘のように鳴り響く鼓動とは逆に、顔からは一気に血の気が引いた。
「な、何者だ……?」
上擦る声が情けないと思いつつも、ゼルガディスは眼光だけは鋭くしてみせた。眉間に力を入れ、腰に下げたブロードソードの柄を握りしめる。男はくすりと笑うと、
「……血は引いていても、力の鱗片すら受け継がれていないようですね」
そう呟いて、一歩ゼルガディスへと歩み寄った。
男が何を言っているのかゼルガディスにはわからなかったが、足は反射的に後ろへ退いていた。そしてあの夜のことを思い出した。あの時、男は自分には用はないと言っていた。ならば、他に何の用があったのか。なぜレゾの部屋をじっと見つめていたのか。
ゼルガディスは剣を抜いた。自分にとってか赤き賢者にとってかはわからないが、この男は紛れもなく敵だと本能が告げている。
男がどうやってゾルフとロディマスを倒したのかはわからない。だが、背を向けるのは恥だとゼルガディスは震える体を叱咤し、目の前の男に向かって駆け出した。
恐怖を振り払うように吼え、渾身の力で剣を振り下ろす。刃は虚しく宙を裂き―次の瞬間、ゼルガディスの顔は大地に打ちつけられていた。後頭部を押さえつけられ、両腕を背中で固められている。自分と同じくらい細身の男のものとは思えないほどその力は強く、ゼルガディスの頬は大地にめり込み、骨の軋む鈍い音が頭の中に響いた。
「ま、この程度ですかね」
息ひとつ乱れることなく、何事も無かったかのように男はそう呟いた。ゼルガディスは眉尻を吊り上げ背後の相手を睨みつけた。
「何が……目的だっ!」
「目的なんてありませんよ。ただの確認作業です」
のほほんとした口調で男はそう言った。清々しいほどの爽快な笑みからはなんの真意も読み取れなかった。
なんとか抵抗しようと身をよじるも、圧倒的な力で組み敷かれ微動だにできない。ゼルガディスはギリッと歯を鳴らした。日々鍛錬を積み重ね鍛え上げてきたこの力は何の役にも立っていない。今までの努力はいったいなんだったのか。
否応にも押し寄せる無力感と絶望感にゼルガディスが顔を歪ませていると、突如、ふっと体が軽くなった。のしかかっていた重圧がなくなり、ゼルガディスは跳ね上がるように飛び起きた。
男は感情のない笑みを浮かべたままだった。そしておもむろに手にしていた錫杖を投げ捨て右手を真っ直ぐゼルガディスに向けると、手のひらを返し、くいくいっと揃えた指を前後させた。
あからさまな挑発にゼルガディスは一瞬で頭に大量の血液がのぼり、全身が煮えたぎった。
ゼルガディスは大地に転がったままの剣を拾うこともなく、丸腰のまま男へと駆け出した。顔面目掛けて捻りあげるように繰り出した右ストレートを片手で鷲掴みにされ、半テンポ遅れて死角から放った左の拳ももう一方の手に掴まれた。それでも怯むことなくゼルガディスはヒュッと鋭く息を吐き、大地を軽く蹴るとふわりと宙で体を前転させ加速した右足の踵を相手の脳天目掛けて突き落とす。しかし攻撃が当たる直前、男は半身を後ろへ捻り力任せにゼルガディスを投げ飛ばした。ゼルガディスは着地と同時に体勢を整え、すぐさま男へと肉薄する。そこでようやく男が動きを見せ、同時に前方へと駆け出した。
ゼルガディスは目を見張った。相手の残像すら捉えきれず、気づいた時には眼前に黒い脚が迫っていた。なんとか間一髪で上体を反らすも、鞭のような蹴りが鼻の頭をかすめていく。風をも切り裂く鋭さに、頬にわずかに痛みが走った。体勢を立て直すべく後転し前を見据える。しかし、目の前に敵の姿はなく、刹那、背中に強烈な衝撃が浴びせられ、ゼルガディスの体は吹き飛び前方の木の幹へと叩きつけられた。
気を失いそうなほどの激痛と殴打した内蔵が悲鳴を上げ、ゼルガディスは咳き込みながら低く呻いた。口の中に鉄錆の味が広がった。
「まだまだ、修行が足りませんね」
息ひとつ切らすことなく、男はゼルガディスのそばに歩み寄り人差し指をちっちっちと横に振りながらそう呟いた。
ゼルガディスは息苦しさと痛みに顔を歪めながら、視線だけを男に向けた。
「……もっと鍛えれば……あんたに勝てるのか?」
「上には上がいる、という言葉を覚えておいた方がいい。分不相応な強欲は、身を滅ぼしますよ」
その言葉にゼルガディスはギクリとした。少し前にレゾに言われたのと同じことを名も知らぬ刺客に言われたのだ。
「あなたは武芸の道に進むよりも、その容姿を活かした方がいいのでは?」
「――っ! 余計なお世話だ!」
軋む体をなんとか起こし、力任せに放った拳は男の残像に突き当たった。だが、ゼルガディスが次の行動に移す前に、男はゼルガディスの懐に入りこんでいた。
「人間、謙虚が一番ですよ」
間近に迫った顔がふっと笑った。そして、額を指でつんっと突かれた。
初めて男の顔に感情が宿った。相手は実に愉快そうだった。完膚なきまでにやられたのに、その笑みは美しく、そして憎たらしいと思った。
ゼルガディスの意識はそのまま闇へと落ちた。


「――ガディス。ゼルガディス」
名を呼ばれ、ゼルガディスはハッと目を開けた。視界には知らぬ間に訪れた夜の空と不思議そうに首を傾げるレゾの顔が広がっていた。
「外出から戻ったらあなた達の姿が見えなくて心配しましたよ」
「……ロディマスとゾルフは……?」
「二人とも先ほど目を覚ましましたよ。先に屋敷に帰らせています。……何があったのです?」
ゼルガディスは上体を起こし、痺れの残る頭を振りながら昼間の出来事を思い出そうとした。だが不思議なことに、記憶にぽっかりと穴が空いたように何も思い出せなかった。ただ漠然と、圧倒的な屈辱と言いようのない絶望感だけが胸の中に残っていた。
目頭が急に熱くなった。ゼルガディスはきつく唇を噛んだ。
「――ゼルガディス?」
心配するように優しくかけられた声に、ゼルガディスの緊張の糸がぷつりと切れた。次の瞬間、ゼルガディスはレゾの胸の中で泣いていた。
「……力が……力が欲しい……」
縮み上がった肺から息を絞り出し、震える声でそう呟いた。レゾはしばらく沈黙した後、
「……毎日努力してきたのをわたしは知っている。おまえは昔に比べればずいぶんと強くなりましたよ」
「ちがうっ! 努力とか、鍛錬とか、そういうのじゃない! そんなものを全部飛び越えて、強くなりたいんだ……」
自分の中の醜いものを吐き出しながら、やるせない悔しさだけがゼルガディスの中で膨らんでいった。
努力には限界がある。限界まで頑張ってようやく手に入れた力もあっけなく蹂躙されてしまうほどの強大な力がある。努力は報われない。誰にも負けたくない。あの男のように、目の前の大賢者のように、人智を越えるような力を手にしたい。
純粋であるが故、誇りにさえ思っていた自分の信念と矜持を打ち砕かれ、醜悪な闇がゼルガディスの心を蝕んでいった。
「……贅沢な子だ……」
ぼそりと呟かれた言葉に、ゼルガディスはハッと我に返った。これまで聞いたことのない、冷たい声だった。
ゼルガディスは顔を上げた。そして目を見開いた。
レゾは能面のような顔をしていた。なんの感情も浮かべていなかった。彼から溢れる淀んだ圧迫感に背骨が凍りつきそうだった。
「……力が欲しいですか? ゼルガディス。何と引き換えにしても――」
ゼルガディスはごくりと喉を鳴らした。その言葉の意味を深く考える余裕はなかった。
ただ強くなりたい。その一心で、ゼルガディスは首を縦に振った。そしてゆっくりと、レゾの手が眼前に迫ってきた。なぜかあの黒衣の神官と同じにおいがした。
迫り来る大きな闇にのまれ、ゼルガディスは再び意識を失った。
レゾの後ろに広がる闇の空で、赤い月が笑っていた。


〜fin〜
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