もがく

ここは沼。底の見えぬ、世界の終わりへと繋がっているのではと錯覚するほどの、深い、深い暗い沼。
目を閉じ、常に張り詰めている気を少し緩める。その途端、意識は容易に沼の深淵へと沈んでいく。一旦沈み出した体を浮上させることは難しい。手足は枷がついたように重く、よどみ濁った醜悪な水に体をべっとりとからめとられる。 触手のように絡みつくそれは首を、体躯を絞めあげあらゆる自由を奪う。
――苦しい。息を吸い、肺を膨らませることなどもう必要ない。そんな臓器も生命活動もなくなった。 それでもそう信じてしまう程のこの窒息しそうな苦しさは一体何なのか――。もがけばもがくほど、息苦しさは増し闇は深くなっていく。
奥底へと沈んでいくと、泣き声が聞こえてくる。年端もいかぬ子供の声。聞き覚えのある、脆弱な声。言われなき罪を背負わされ全てを蹂躙された哀れな子供。耳を劈く悲痛な叫び。世界に波紋を起こすような魂の震え。 それを感じる度に、出るはずのない雫が目から零れていく。
止まることなく沈みゆく意識に唯一差し伸べられるのは、燃えるような赤い一筋の光。その光を掴もうと震える手を必死に伸ばす。だが、それは叶わない。赤い光は己の手に触れる寸前でいつも無惨に砕け散る。 破片は色を失い粒子となり沼から吐き出される。焦がれた光は二度と沼を照らすことは無い。
何も掴めぬ己の無力な手を握り締め、胸に燃えさかる青白い炎に身を委ねる。
許しはしない。不条理な安寧とやらを掲げる殺戮者を。
許しはしない。自分の大切な光を奪った存在を。
許しはしない。何よりも無力な自分自身を。
光が失われた深淵ならば、己の青白き炎で照らしてみせる。自分の悲願が叶ったその時こそ、きっとこの沼を這い出ることが出来る。出来るはずだ。
沈みゆく体で精一杯もがきながら、必ず本懐を遂げてみせると己に誓う。それこそが、己の存在理由なのだから。


******

「初めまして。僕はゼロスと申します。あなたを殺しに来ました」
話の内容にそぐわぬ爽やかな笑みを浮かべて、ゼロスは目の前の男に一礼をした。激しく吹き荒れる風が、無慈悲に照り付ける太陽で焼かれた熱砂を撒き散らし、 彼の黒い法衣と肩で切り揃えられた紫紺の髪をも揺らしていく。
その身勝手極まりない自己紹介を受け、男は眉根を寄せた。だがそれも一瞬。聞き覚えのあるその名を記憶から引きずり出すと同時に、体は動いていた。手に生み出した魔力球をゼロスに向かって連打する。 ほぼノータイムで放ったその力は、瞬時に虚空へと渡ったゼロスの後方、砂漠にそびえ立つ崖に着弾し爆発する。長い年月をかけ織り成された赤褐色の岩層に亀裂が走り巨石がとなって崩れ落ちる。轟音は地を揺るがし、爆風は砂漠を荒らす風と重なり竜巻となる。
男は吹き荒れる熱砂を気にすることなく、意識を集中し相手の気配を探った。
瘴気は、斜め後ろから出現した。
「せっかちな方ですねぇ」
男が反応するよりも速く、ゼロスは男の左肩にぽんっと手を置いた。急ぎ跳び退き距離を取る。だが、遅かった。電撃にも似た痛みが走り、たまらず男は右手で左肩を掴んだ。羽織った丈の短い紫苑色のマントと藍色の上衣とともに男の肩はパックリと裂け、その断面には闇色が張り付いていた。
男は小さく舌打ちし顔をしかめるも、意識はゼロスから外さない。一瞬でみせつけられた力の差に、まなじりを吊り上げ歯噛みする。
「そう怖い顔をなさらず。......そうそう、あなた、お名前は?」
圧倒的な力に優越に浸ることもない、淡々とした口調。涼やかな笑みを張り付かせたまま、ゼロスは男に訊いた。
男は答えなかった。当然だ。自分を殺しに来たと、開口一番告げるような相手に丁寧に答える義理などない。
「あぁ、なるほど。口にも出せない恥ずかしい名前なんですね」
ぽんっと手を打ち、茶化すようにゼロスがそう言い終えた瞬間、男は眉間の筋を深くしゼロスを激しく睨みつけた。
「......俺の名は......ヴァルガーヴだ」
怒気に満ちた表情とは裏腹にその声音は低く落ち着いていた。
見え透いた挑発だったが、それでも男にとってその言葉は聞き逃せないものだった。
その名は、今の自分の全てであり存在理由にも等しい。それをなじられるのは我慢ならなかったのだ。
「そうですか。ヴァル、ガーヴ......ですか」
含みを持たせた声で、ゼロスはその名を繰り返した。つぅっと、口の端が吊り上がり、糸目のような目がさらに細くなる。
「俺からも聞きたいことがある」
「ほう。なんでしょう?」
小馬鹿にした余裕の表情をみせる魔族に、ヴァルガーヴは憎悪を湛えた静かな口調で訊いた。
「......キサマは......あの、獣神官ゼロスか?」
「えぇ、そうですよ。知って頂いていたとは光栄です」
ゼロスののほほんとした答えが返ってくるやいなや、ヴァルガーヴは瘴気を全開にした。
「短気なところは主似ですか?」
ヴァルガーヴから矢継ぎ早に繰り出される魔力球をすべて紙一重で躱し、ゼロスはさらに挑発した。翻る漆黒のマントまでもが愉しんでいるかのようで、ヴァルガーヴの神経を逆撫でる。
「獣神官ゼロス......ガーヴ様が滅ぶ要因となった魔族!キサマは俺が殺す!」
「......まぁ確かに、無関係ではありませんが......しかし、主人の仇討ちとは物好きな方ですねぇ」
「黙れ!」
ヴァルガーヴが吼え、力を繰り出し、ゼロスが躱す。時間にして瞬きを二、三度するほどの間に繰り広げられる猛攻。しかし、攻めれば攻めるほど、ヴァルガーヴの表情は険しくなっていく。
彼自身、痛烈に自覚してしまったのだ。自分の力では、この獣神官プリーストには勝てない。

魔族の力は与えられた時点で優劣が決まる。人間のように切磋琢磨し鍛えあげるものではない。一は二にならないし、一たす一は二にもならない。
だが、引き下がるわけにはいかない。自分の敬愛すべき主を失う要因となった憎き相手を目前に逃亡するなど、彼の矜持が許さなかった。
ヴァルガーヴは半ばヤケクソに衝撃波を繰り出す。やれやれと、ゼロスが粗末な攻撃を躱そうと虚空へ姿を消す。その瞬間を狙い同時に精神世界面アストラルサイドからも攻撃を仕掛ける。しかし、それすらもあっさりと避けられその余波は物質世界の大気を振動させる。
人の目には見えぬ攻防がしばし繰り広げられ――刹那、背筋が凍りつくような感覚に、ヴァルガーヴは反射的に身をひねる。突如、脇腹のあたりから黒い円錐状のものが彼を貫かんと出現した。脇腹に焼け付く痛みが疾る。そこに生じた一瞬の隙。ゼロスはヴァルガーヴの眼前に出現し、右脚で蹴りを繰り出した。 それは彼の鳩尾に深くきまり、ヴァルガーヴは体がくの字に折れ曲がり、かはっと息を吐く。決して豪脚ではないが、魔族の見た目と威力は比例しない。ゼロスの一撃はヴァルガーヴの体を後方へ弾丸の如く吹っ飛ばした。轟音を立て、砂漠に悠然と坐す一際高く突き出た巨石に打ち付けられ、固い岩盤に体がみしりとめり込む。 ずるりと体が落下し、たまらず膝をつく。ヴァルガーヴは衝撃に顔を歪める暇もなく肉薄するゼロスに光球を放つ。 ゼロスは迫るそれを難なくはじき飛ばした。そして伸ばされた彼の右手の甲を錫杖で貫き、そのまま勢いにまかせ後ろの巨石へと深く突き立てた。さらに、右脚で裂けた左肩を勢いよく踏みつける。 鮮烈な痛みに声が漏れ顔が歪む。はねよけようと全身に力を込めるも、押さえつけられる力は強くゼロスの脚はびくともしない。ヴァルガーヴは唇を噛みゼロスを睨みつけた。
何事も無かったかのような涼しい笑顔のまま、ゼロスはにこにことヴァルガーヴを見下ろしていた。
「残党狩りなんて趣味じゃないんですけどね。上の方々がお決めになったことですから......あしからず」
ゼロスの右手に、虚無色の力が生み出された。
ヴァルガーヴは己の無力さに歯を軋ませ俯いた。主の無念をひとつも晴らすことが出来ないままここで朽ち果てる。自分はここでも役に立てない。役立たずだ。あまりの自分の不甲斐なさに、ふと、昔の記憶が頭をよぎった。

『お前は残れ、ヴァル』
いつの日か告げられた絶望が蘇った。新参者だったから......純粋な魔族ではなかったから......今となってはその本意は分からない。だが、それでも役に立ちたかった。自分を魔族として蘇らせてくれたあの方の……自分の境遇を共に呪ってくれたあの方の右腕として、いや、いっそ捨て駒でも構わない。共に戦いに加わりたかった。 求められればいつでも馳せ参じたのに、ついぞ自分の名前が呼ばれることは無かった。呼んで欲しかった。あの方に頂いたこの名とこの力で、側に仕えたかった。
走馬灯のように駆け巡った内なる想いに、ヴァルガーヴは口角を少し上げた。
――女々しいやつだ。そう心の中で独り言ちた。

塵と熱砂を含んだ一陣の風が、ヴァルガーヴの浅緑色の髪を揺らした。束の間の静寂。来るべき終わりが待てど来ず、ヴァルガーヴは顔を上げた。
そこには、糸のように細い双眸を薄く開き、凍てついた夜のごとく冷たく暗い紫の瞳がこちらを見ていた。闇よりも深く鋭い瞳孔に射抜かれたかのように、彼はその瞳を食い入るように見つめた。 純粋な魔族の瞳はかくも美しく妖艶に光るのかと、呆けた頭でヴァルガーヴは思った。
「......あなた......」
妖麗な瞳が、ヴァルガーヴの眼前にまで迫る。
「本当に魔族ですか?」
その一言に、ヴァルガーヴは目を見開き、息を詰まらせた。
「何言ってやが――っ!」
ヴァルガーヴの反論は、世界に飛び出すことなく消え失せた。
視界いっぱいにゼロスの顔が広がる。
口を塞がれた。ゼロスの唇によって。
自分の持つ全ての負の感情が沸騰し、間欠泉の如く頭上から突き抜けた。
渾身の力を爆発させ、ヴァルガーヴは錫杖で貫かれ巨石に固定された右手を力任せに引き抜き、ゼロスへと衝撃波を振るった。力は虚しく熱砂を撒き散らし乾いた大地を薙いだ。
「このぐらいで動揺するなんて......結構俗物なんですね」
「――キサマッ!」
声のする方へ向くと、いつの間にかゼロスは巨石の上に足を組んで腰を下ろしていた。
ヴァルガーヴは穴の空いた右手で自身の唇を強引に擦った。魔族にしてみれば、口付けなどただの物質の接触に過ぎない。そこに感情などあるはずもない。だが、かつては肉体を持っていたことのある身として反応してしまうのは当然のこと。 そして、それは今だに過去の自分を捨てきれていないということ。
怒りに体を震わすヴァルガーヴを見下ろし、ゼロスはゆっくりと口の端を吊り上げた。
ゼロスは見逃してはいなかった。ヴァルガーヴが覚悟を決めた瞬間、今は亡き主に想いを馳せたこと。そしてその想いに、魔族が創造主に対して抱く畏敬の念以外の何かを含んでいることを。彼から流れ込んでくる負の感情に混じった、どこか人間臭いくだらない感情を。
そして確信した。意味をなさない情動に狼狽える彼は、不純物だと。
更にそんな不安定な存在は、悪魔の嗜虐心を唆る格好の獲物となる。
「......退屈ですし、少し遊んで差し上げましょうか」
そう言うなり、ゼロスはマントをはためかせ音もなく大地に降り立った。ヴァルガーヴはゼロスから視線を外さず反射的に距離をとる。ゼロスは笑みを崩さず、
「――いきますよ」
掛け声と同時に、大地を蹴り上げ一瞬でヴァルガーヴとの距離をつめた。
(――疾い!)
舌打ちをし、とっさに顔前で両手を交錯し身構えた。そこに蛇のごとくうねるゼロスの右脚がきまり、衝撃とともに後方へ吹っ飛ぶ。足を地にすべらせ態勢を整える。しかし今度は背後に出現したゼロスの錫杖がヴァルガーヴの背を薙ぐ。 不完全な姿勢のままなんとか体を沈め逃れるも、錫杖の一閃はヴァルガーヴのマントと上衣をざっくり切り裂いた。身を沈め地に手をつき右脚を後へ向かって回し蹴る。 ゼロスはひらりとそれを躱し、後方へ宙返る。そしてすぐさま数多の光球を生み出し、解き放つとともにヴァルガーヴに肉薄する。 光球が着弾する直前、ヴァルガーヴは精神世界面アストラルサイドへと渡った。しかし、嫌な予感が体を走り抜け、すぐに物質世界へと戻る。瞬間、右脚に激痛が走る。空間移動する際、ゼロスの本体による攻撃がヴァルガーヴの脚を捉えていた。ゆったりした白いズボンが避け深い裂傷が顔をのぞかせる。
ヴァルガーヴは顔をしかめ舌打ちをし、ゼロスの追撃に備えた。しかし、間髪入れず襲い来ていた攻撃はぴたりと止まり、不気味な静寂があたりを支配する。ゼロスの姿はない。
「どこいきやがった!?」
「ここにいますよ」
声は耳元で発せられた。振り向くと同時に、ゼロスから真っ黒な闇が立ち上り、みるみる世界を漆黒の空間へと変えていく。
(結界かっ!?)
空間を閉鎖されまいとヴァルガーヴも瘴気を放ち相殺させようと試みる。しかし、真横からきた衝撃波に吹っ飛ばされ体が二、三度横転した。態勢を整えようと立ち上がる前に勢いよく背中を踏みつけられ、這いつくばったまま両手を背中で拘束された。頭の後側からくすくすと笑う声が聞こえた。
体重ではなく、ずっしりとした歪で禍々しい瘴気の塊に押し潰され抗うことができない。ヴァルガーヴは己の情けない姿にまなじりを吊り上げ、唇を噛むことしかできなかった。
「あなた……なかなか面白いですね」
「――なんだとっ!?」
「そんなに怒気を撒き散らして……何を隠したがっているのですか?」
ゼロスの言葉にヴァルガーヴは目を見開き体を硬直させた。ゼロスはヴァルガーヴの後ろ髪をひと房掬い、指に絡ませ弄ぶ。
「主君がいなくなったのがそんなに寂しいですか?......あぁ、戦列に加われなかったことが?」
次々と心の内を読まれ、ヴァルガーヴは体を震わし両手をきつく握りしめた。髪を梳いていた指がそのまま下へ降り、剥き出しの背中をつぅっと撫でる。手袋のざらりとした感触と淫靡な動きに身の毛がよだつ。
「あなたは感情のコントロールがお粗末すぎて、意識を傾けなくてもよく聞こえてくるんです。まるで、群れから取り残された雛鳥のような泣き声が......」
僅かな衣擦れの音までもが耳につく。さらりとした絹糸の感触が肩にかかり、右の首元に柔らかなものが押し付けられた。おぞましい戦慄が体を走り抜ける。そして、低く妖しい甘美な声音で、ゼロスはヴァルガーヴにそっと囁く。
「それほどまでに、主君を愛していたのですか?……ね、ヴァル、ガーヴ?」

ヴァルガーヴの中で何かが弾けた。それと同時に瞬間的に己の力を爆発させ、のしかかっていたゼロスを結界ごと吹き飛ばした。
世界は一面砂漠へと戻った。照り付ける太陽は傾き始め砂漠を赤銅色に染めている。
手負いの上、一度に大量の魔力を放出したためヴァルガーヴはたまらずその場に膝をついた。裂けた肩や脚、穴の空いた右手を修復するには力を失い過ぎていた。
突き刺すような痛みの他に、ジクジクとした鈍いものが履い回るような痛みもある。その痛みの根源を確かめるべく首をひねる。ギリギリ視界に入る首元から肩のあたりに、赤い紋様が浮かび上がっていた。まるで血で描かれたような、真紅の刻印。
「それは目印ですよ」
声は正面から聞こえた。いつの間にか目の前には薄い笑みを張り付かせたゼロスが佇んでいた。
「あなたは僕の獲物です。幸い、上からは『すぐ殺せ』とは言われていませんからね」
愉しそうに語る魔族に、ヴァルガーヴは残った気力で睨み返すことしか出来なかった。
「今日はこれで失礼します。――せいぜい、楽しませてくださいね」
そう言い残し、黒衣の神官プリーストは姿を消した。
ヴァルガーヴは大地に両手を激しく叩きつけ、吼えた。



その後も、ゼロスは気まぐれにヴァルガーヴの前に姿を現した。間隔を開けず翌日やってくることもあるし、一週間姿を見せない時もあった。ただ言えるのは、たとえどこへ身を潜ませようとも、必ずゼロスはヴァルガーヴを捉えていた。
姿を現す度に、ヴァルガーヴの傷は増えていき、赤い刻印も増えていく。腕、胸、腹……当人からは見えないが背中や腰にも赤い華が咲いていた。印を中心にジクジクと蛆が履い回るような感覚と鈍い痛みが体を蝕んでいく。その刻印はゼロスの力によって生み出されたもの。絶対的強者によって、一本一本手足がもがれていくように、少しずつ少しずつ、ヴァルガーヴはゼロスに侵食され屠られていく。
ヴァルガーヴは憔悴していた。体の傷や痛みだけではない。屈辱、恥辱、憤怒......あらゆる憎悪が自身の中で渦巻き、逆にそれらは自身の精神を蝕んでいく。
ヴァルガーヴはゼロスの追従から逃れるように、各地を転々と渡り歩いた。もともと本拠地を構えていたわけではない。どこにいても結果は同じなのだが、それでも一つのところにとどまり続ける気にはならなかった。
ヴァルガーヴは千切れそうな身を引きずりながら、次なる場所へと空間を移動した。
悔しいが、まだ滅ぼされるわけにはいかなかった。

辿りついた先は洞窟だった。黒曜石を含んでいるのか、一面墨を塗ったような黒い岩肌。陽の光も差すことを拒みそうなほどの深い闇。どこからか水滴の落ちる音が反響してくる。地面は乾いているが、ごつごつとした大小の岩が転がり、注意しなければすぐに足を取られてしまう。常人ならば。
ヴァルガーヴは幾重にも枝分かれした道を突き進み、やがて淡い光を放つ空間へとたどり着いた。ヒカリゴケすら生えない道のりとは対照的に、その広い空間はぽっかりと空いた天井の穴から柔らかな陽の光が降り注ぎ、黒い岩肌が照らされきらきらと輝いている。
『何者だ』
ヴァルガーヴが部屋の中央まで進んだところで、声が反響してきた。洞窟の反響のせいなのか、こういう声質なのかは判断しかねたが、水中で話しているようなくぐもった声だった。ヴァルガーヴは右側に気配を感じ、身構えるとともに視線を向けた。
そこには、奇妙な甲冑をつけた大男が立っていた。男といったのは、見た目から判断しただけだ。その気配は人間でも神族でも魔族でもない。これまでに会ったことのない気配に、ヴァルガーヴは眉をひそめた。
『……手負いか』
「……キサマは何者だ」
質問に質問で返し、ヴァルガーヴは大男を睨みつけた。
大男はヴァルガーヴを観察した。満身創痍の出で立ちでもなお、強い怒りの炎を宿した琥珀色の瞳を見据え、大男は口角を引いた。片目にはめ込まれた黄玉がぬらりと光る。
『我が名はアルメイス。異界より来たりし者』
「――異界、だと!?」
俄には信じ難い言葉に、ヴァルガーヴはさらに警戒を強める。
『そうだ。ある目的のためにこの地へとやって来た。……どうだ?我らに手を貸す気はないか?』
異界の者の言葉に、彼の琥珀色の瞳が揺れた。
アルメイスは見抜いていた。呪詛に苦しみ心身ともに疲弊しているこの男は、間違いなく力を渇望しているということを。
『手を貸すというのなら、わたしもお前に力を貸そう』
心を見透かされたようなアルメイスの提案にヴァルガーヴは逡巡した。
自身の悲願のために他人の手を借りるなど、今までの彼からは考えられなかった。だが今は違う。回数を重ねる毎に膨らむ憎悪の念はもはやとどまることを知らない。たとえ自分の矜持を捨ててでも、あの憎き魔族は滅ぼさなくてはならない。何よりも、自分自身の手で。
「――いいだろう。俺はヴァル、ガーヴだ」


「……おや?どういうカラクリでしょうか。以前より腕を上げましたね?」
ヴァルガーヴから繰り出される魔力球の嵐を滑らかに躱しつつ、ゼロスはそう呟いた。厚い雲に陽の光を遮られた世界に閃光が輝き、見渡す限りの広大な草原に次々と大穴が空き地形が変化していく。
「キサマを倒すためなら、なんだってしてやるさ!」
いくつものフェイントを入れヴァルガーヴは空間を渡りゼロスの背後に出現。間髪入れず蹴りを繰り出す。それは、身をかがめたゼロスの髪の端を少し薙ぐ。しかし、体を翻したゼロスの手に軸足を捕まれ、そのまま大地へと叩きつけられた。
「でもまだまだ、僕には及びませんね」
ゼロスは仰向けに地に張り付いたヴァルガーヴの両手首を押さえつけ馬乗りになった。びっしりと群生する短草が人型に窪み、大地に転がる大小の石がヴァルガーヴの背にくい込む。
この上なく愉しそうに揺れる紫暗の瞳が、獲物の窮地を味わうように真っ直ぐ見つめている。ヴァルガーヴはまたもや睨み返すことしかできなかった。
「そんなに憎悪を剥き出しにしたままでは、僕には勝てませんよ」
ゼロスの顔が間近にまで迫り、頬にかかる絹糸を避けるようにヴァルガーヴは顔を逸らした。
「あなたの感情すべてが、僕の糧となる」
ゼロスは艶やかな声色で囁き、ヴァルガーヴの首筋に唇を落とす。屈辱的な行為に怒りで頭が煮えたぎるも、ヴァルガーヴは違和感を感じていた。いつも印を刻まれる時に感じる痛みがない。それどころか、体を支配していた不快な侵食が嘘のように消え去った。
力を噴出し、のしかかるゼロスを振り払いヴァルガーヴは己の体を見回した。体中に刻まれていた赤い紋様はすべて綺麗に消えていた。
「残念ですが、急用が入りましたのでそれは一度解除させてもらいました。放置してる間に勝手に死なれても困りますし」
あっけからんとした口調で言い、ゼロスは肩をすくめた。
「ですが、いずれまた来ます。今度はちゃんと、殺して差し上げますよ」
口角を上げにこりと微笑むと、ゼロスは踵を返した。
「あぁそうそう、これはしばしの餞別代わりにですが......リナ=インバースが滅びの砂漠を越えましたよ」
ゼロスの発言にヴァルガーヴの片眉が跳ね上がった。それはゼロスと同様、魔竜王ガーヴが滅ぶ要因となった人間の名だった。そして、討つべき標的でもある。
「どういうつもりだ」
「それは――秘密です」
人差し指を立て唇に当てたまま、ゼロスは虚空へと消えていった。


湿った生温い風は草木をざわめかせ、取り残されたヴァルガーヴの髪を攫い弄んでいく。空にかかるぶ厚い緞帳から、次第に細かな水滴が降り注ぐ。
(――次に会ったときは、必ず殺す)
握り拳を震わせ、ヴァルガーヴは唇をかんだ。降り注ぐ雨粒が頬を伝い、雫は乾いた大地へと落ち黒い染みをつける。
もう二度と、相手の思い通りにやられはしない。抵抗する術を持たなかったあの頃とは違う。目的のためならば、己の矜持など塵に等しい。全てと引き換えにしても、必ず本懐を遂げてみせる。
ヴァルガーヴは固く心に誓った。ふいに、頭の中に泣き声が聞こえた気がした。そして決して消えることのない頬の傷がじくりと疼き出す。
世の中は不条理だ。そして、シンプルだ。強者のみが生き残るこの世界で、信じられるものは己の力と揺るぎない信念のみ。
――そう、あの方に教わったのだから。

ヴァルガーヴは目を瞑り、感情を平静に戻した。ゼロスのあの口ぶりなら、しばらく襲撃には来ないだろう。ならばその間に、もう一人の標的を始末するほうが合理的だ。力もまだまだ足りない。
「リナ=インバースか……」
降りやむことなく激しさを増す雨粒を吸い込み、服にかかる重力が増し肌にべとりとまとわりつく。ねっとりと絡みつく空気に溺れるようでなぜか息苦しい。
ヴァルガーヴは胸に拳を当て震えた。ゼロスによって何倍にも膨れ上がった憎悪の念を胸に抱き、深き闇へとその姿を消した。

――彼はまだ、沼の中にいる。
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