ぬくもりの所在 |
「ゼルガディスさん、大丈夫ですか?」 三回のノック音とともにくぐもった少女の声が扉の外側から鼓膜に響いた。すっかり力の抜けた瞼をなんとか持ち上げゼルガディスは軽く顔を横に傾けた。安宿の軋んだ扉が開き、「入りますね」と一言。アメリアがゆっくりとした足取りでこちらへ近づいてくる。 「どうです?少しは具合よくなりました?」 そう言い、ベッドのそばに置かれた消灯台の上に手に抱えていた桶を置き、椅子を少しひいてゼルガディスと向き合うように腰掛けた。 「……あまり変わらんな」 「けっこう長い時間、雨に打たれてしまいましたからね」 暗い声で話し、アメリアは表情を曇らせた。形の良い唇がきゅっと唇を結ばれる。薄暗い部屋をぼんやり照らす灯りを背に、その顔はより暗く、より悲痛さを増した。 それを見、ゼルガディスは小さく息をひとつ吐いた。 「傘代わりにマントを貸したのは俺の意思だ。おまえが気にすることはない」 「……はい。ありがとうございました」 少しだけ口の端が上がるのを確認し、ゼルガディスは再び目を閉じた。高熱と疲労に侵された体では目を開けているのも辛かった。 「でも、ゼルガディスさんって、けっこう熱出すこと多いですよね」 「悪かったな」 「あ、いえ、そんな意味じゃなくて……」 目を開けずとも、ゼルガディスには目の前の少女が自己嫌悪に陥っているであろうことはその口調から充分に理解できた。 いつものぶっきらぼうな物言いひとつも、今の彼女には胸に突き刺さるものがあるのだろう。 「……昔は、身体が弱い方でな。よく熱を出していた。その名残かもな」 ゼルガディスの言葉に、ホッというため息と「そうだったんですか」という安堵の声が降ってきた。少しは胸が軽くなったらしい。 「ゼルガディスさんはちょっと痩せすぎなんですよ。たくさんご飯食べて体力つければ大丈夫です!」 大きなお世話だと、ゼルガディスは返事をする代わりに深いため息をついた。 食えば元気になるなど、この場にいない旅の連れ二人と同じにされてはたまらなかった。 会話が途切れたところで、屋根や窓ガラスに打ち付ける雨音がよりいっそう激しさを増していることに気づいた。春先の長雨は、夜の深まりとともに大気を冷やしていく。熱にうなされていなければ温かいスープか寝酒あたりを身体が欲したであろうに。 重たくなるばかりの頭を枕に深く沈め、ゼルガディスは睡魔が猛襲するのを待とうとした。 その時、額にひやりとしたものが当てられた。桶の水で冷やしたタオルかと思ったが、それにしては柔らかい。そして、ほんの少しの重力と胸にまで染み入るような冷たい温もり。 ゼルガディスはゆっくりと目を開けた。予想通り、そこには自分の額に手を伸ばしたアメリアの姿。もう片方の手を自分の額にあて、うーんと顔をしかめている。 「――そう簡単に男の体に触れるもんじゃない」 そうゼルガディスがぽつりと呟くと、アメリアはキョトンと目を開き、少しの間を置いてぷっと吹き出した。 「ゼルガディスさんって、真面目ですよね」 「ほっとけ」 くすくすと笑う少女の顔を見、ゼルガディスはムッと顔を背けた。言わなければよかったと、調子の狂った自分を叱咤した。 アメリアはしばらく声を殺したままコロコロ喉を鳴らすと、ゆっくりとゼルガディスの額から手を離した。 「まだ、かなり熱いですね。いま、リナさんとガウリイさんが薬を買いに行っています。大きい街だから夜でも空いてる薬屋があるかもしれないって」 「……迷惑をかけたな」 「何言ってるんですか。こういう時のための仲間でもあるんですよ」 そう言ってニコリと微笑むと、アメリアは桶に沈んだタオルを絞り、自分の手のひらの代わりにそれをゼルガディスの額に乗せた。無機質なぐらい、それはよく冷えていた。 「あとでタオル換えに来ますから」 そう一言を残し、アメリアは部屋を出ていった。 ゼルガディスはもう一度ため息をつくと、そっと目を閉じた。 皆が自分のことを気遣ってくれる。それはもちろんありがたいことだ。だがどこかむず痒い。 ふと、ゼルガディスは思った。キメラの体になってから、こんな風に看病を受けたことはあっただろうかと。 否。 分不相応な強さを求めたためこの忌まわしい姿になったのだ。それなのに、他人に弱い自分を見せるなど、己の矜持が許さない。 では、もっと昔はどうだっただろうか。 いくら待ってもやって来ない睡魔を恨みつつ、ゼルガディスはゆっくりと瞼を下ろし、記憶の奥底へと意識を沈めた。 親のことはほとんど覚えていない。母だと呼ばれる人がいて、父と名乗る人がいた。せいぜいその程度だ。顔を思い出そうとしても、朝靄に隠れる人影を目隠ししながら探すようなものだ。 だからだろうか。打算なく無性に注がれる愛というものを、ゼルガディスは知らない。 そんな彼がぬくもりとは何かを思い出す時、必ず最初に出てくるのは、あの大きな手だ。 それは、いつもなら必要以上に絡んでくる賑やかな二人がいない、冷たい夜だった。 「かなり熱が高いようですね」 そう言って、レゾは自分の額にそっと手のひらを重ねた。 朦朧とした意識の中、破裂しそうなぐらい熱のこもった額に、ひんやりとした柔らかな感触。 手は離れる前に、必ず前髪をひと撫でしていく。そしてそのまま何事も無かったかのようにレゾは部屋を後にする。 梳かれた髪がはらはらと額に落ちる感触、めったに触れることのない冷たいぬくもりを少しでも感じていたくて、レゾの手が離れた後もゼルガディスは全神経を額に集中させた。独り取り残された書物だらけの広い部屋で、寂しさを感じないように。 冷たいものでも温かいものがあるということを、幼い自分なりに理解したのだろう。ずっとこのまま熱があってもいいかなと、単純な自分はそんな風に考えた。今ひとつ素直に懐の中へ飛び込めない、気難しい祖父に素直に甘えられる唯一の場だと信じていた。 ゼルガディスはククッと唇の端を歪めた。思い出せば思い出すほど、無知とは恐ろしいものだ。 レゾに初めて会ったことはよく覚えている。偉大な賢者の手に引かれ屋敷に至る暗い森の中を二人で歩いたことも。 親が不慮の死を遂げてすぐに預けられた祖父が自分のことを可愛いがり始めたのはいつからだっただろうか。 レゾは、自分のことを大人に接するのと同じように扱った。当初、幼い自分はそれは自分が好かれていないからだと思っていた。 今思えば、親を亡くして塞ぎ込んでいた子供にどう対応していいか考えていたのかもしれない。 昔のことを思えば思うほど、レゾという人間がどういうものであったかがわからなくなる。 自分が力を求めなければ、レゾは自分をキメラにすることはなかったのだろうか。それともいつかは別の実験台にでもするつもりだったのだろうか。 ただの私欲に溺れた悪人だったらどんなに楽だっただろう。そうだったならば、安心して心の底から憎み抜けるのに。 だが、彼のことも今なら少しわかる気がする。自分に向けられた慈しみとそれに相反する狂気がなぜレゾの中に共存していたのかが。 醜い姿に変えられたのも事実だが、あの冷たくて温かい手があったことも事実なのだ。 そしてそれは、自分の中で一生褪せることは無い。 ゼルガディスは額に載せられたタオルに重たい手を伸ばした。冷たかったそれはすでにぬるい塊になっていた。タオルを消灯台の上に放り投げ、代わりに椅子の背にかけてあった外套を手に取った。まだじっとりと濡れているそれから深紅のブローチを外し、部屋の灯りにかざす。昔、旅の土産にとレゾにもらったものだ。 今も瞼の裏に焼き付いて離れない赤色と同じ石が部屋のオレンジ色の光を受けて柔らかい輝きを宿す。 ゼルガディスはそっと、それを自分の額にあてた。 先程の小さな手よりもずっと重く、そして冷たく、温かく感じた。 熱い身体が、より熱くなった。 〜fin〜 |