お客様、お味はいかがですか?

――やかましい。
その一言に尽きる客だった。
 店を開いて二十数年。眼下に広大な海を臨む眺望があるものの、長い坂道を登らなければたどり着けない不利な立地。ここで長年愛され続ける存在≪みせ≫になるためには、己の技術力向上、そして初心を忘れない謙虚さが不可欠。そのモチベーションを持続させるためにも、客の意見を自分の耳で聞く。開店以来、男はその努力を怠ることはなかった。
 巷で人気の一定料金、時間制限付きの食べ放題システムを取り入れているが、使用している食材にもこだわっているため値段設定は大衆食堂と比べて高い。だからか、客層は自然と中流階級以上の者が多く、そういった客の意見はたいてい似たりよったりだ。
「悪くないお味ね」
 いい加減これ以外の感想を聞かねば、果たして自分の腕が上がっているのか鈍っているのかわからなくなる。
 そんな折、珍しく旅人風の客がやってきた。若い女の子一人に青年が二人。服装からして魔道士や傭兵といった類だろうか。料理一徹の中年料理長にはそのぐらいしかわからなかった。だが、これは珍しい客層の意見を聞く願ってもない好機。
 男は真白の調理服の襟元をただし、自慢の口ひげのカールを整え、ふっと息をひとつ吐く。そして、珍客のテーブルへと歩みを進めた。


「んっまー!このワタリエビのハーブロースト、焼き加減絶妙!身はしまってるのにすんごくジューシー♪」
「こっちの焼き飯も海鮮のダシが出ててむちゃくちゃうまいぞ!」
「やーね、パエリアって言いなさいよ。あ!ガウリイ!それあたしが持ってきた足長ダコのカルパッチョ!」
「いいじゃねーか、また取ってこれば。食べ放題なんだろ?」
「何言ってんの!人気メニューは早くなくなるし次いつ出てくるかわかんないのよ!って、ああああああ全部食べたわねぇぇぇぇぇ!」
 途切れることのない会話。盛り付けセンスなどまったく考えられていない、これでもかと皿に盛られた自分の作品。戦場でもないのに絶え間なく鳴り響く金属音に閃く銀条。技の応酬は静まることなく続き、瞬く間に料理のかさが減っていく。
 そのテーブルからは、他を寄せつけない、生死を賭けているかのような戦闘≪バトル≫オーラが発せられ、穏やかな昼下がりの空気を重苦しいものに変えている。その雰囲気に気圧され、あと一歩が踏み出せない。男の頬に一筋の汗が伝い、いつも怒っているのかと勘違いされる三白眼が大きく見開かれる。驚いたのはそれだけではない。追随を許さぬ勢いで料理を平らげているのは、入店時に見た男二人ではなく、華奢な少女と金髪の美男子。
(大食いチャンピオンか何か、か……?にしても、あんな勢いで食べて本当に味わってるのか!?)
 調理時間の十分の一にも満たないスピードで料理を飲み込んでいく二人に、もっとかみしめろよ!ゆっくり味わってくれよ!と声高に叫びたかった。だが、鬼の形相で金髪の口からタコ足を取り返さんとしている少女の間に割って入る勇気などない。見たこともないげひ……激しい食事風景に圧倒され、男は開いた口が塞がらずしばらく呆然としていた。
 ほどなくして、席をはずしていたおかっぱ頭で僧侶風の男が料理を取り終えテーブルに戻ってきた。自身の席に着く前に通りすがりの婦人とぶつかり、非礼を詫びて腰を下ろす。大きな盆に乗せられたのは小さな深皿に申し訳ない程度に注がれた魚介のスープのみ。
 男は眉根を寄せ、額に刻まれたしわをさらに深くした。
高い金を払って冷やかしか?よく見れば終始にこにこと浮かべている笑顔が実に胡散臭い。
「お二人とも、せっかくいつもよりいいお店に来てるんですから、もう少しゆっくり味わってはいかがですか?せっかくの料理が泣いてますよ?」
(――――っ!おかっぱグッジョォォォブ!)
 まさに自分の胸中を代弁され、料理長は後ろに組んでいた手の親指をぴんっ!と立てた。
「うっさいわね!時間制限あるんだし、高いお金払ってるからこそ後悔しないように全力で食べてるんでしょーが!それに、ちゃんと味わってるわよ。例えばこのバジルソース!新鮮な素材の味を殺さず風味をいかすために隠し味でフューリーの実を削って使ってるところがニクイじゃないの!」
「この黒いプチプチの乗ったサーモンのサラダもうまいぞ!」
「そっ、それは!一匹のデビルシャークからわずかスプーンひとさじしかとれない幻の珍味!くぅぅ、このグルメリナちゃんが見落とすなんて一生の不覚!」
 連中は変わらずやかましく、他の客は露骨に顔をしかめそのテーブルには奇異の視線が集まっている。店側としては注意するのが正解なのかもしれない。
 しかし、男はふっと息を吐くと踵を返し自身の持ち場へと帰った。がたいのいい背中は丸まっているが、落胆はなくその足取りは決して重くはない。
精進し続けて二十数年。かたくなに続けてきた客との会話を必要としなかったのは、今日が初めてだった。


「……お気の毒に」
「ん?なんか言ったか?ゼロス」
 遠くを見つめぼそっと呟いたゼロスの言葉に、ガウリイはシーフードパスタを頬張りながら答えた。
「いえ、何も」
「ってかアンタ。なんでちゃっかりあたしたちと一緒にいるわけ?」
 もはやこの言葉も耳にタコができるぐらい交わしているが、それでも一応確認を取っておかなければならない。のほほんと魚介スープをちまちますすっているが、これでもれっきとした純魔族。とんでもない厄介ごとをその飄々とした笑みの裏に隠しているかもしれない。リナは飽き飽きした顔でゼロスに問う。
「いえ、お二人がいつもの安い大衆食堂ではなく、珍しく高級なお店に入っていくのを偶然見かけたものですから」
「あたしたちが何食べようと勝手でしょ」
 リナはため息混じりに言葉を返した。
 ゼロスの言う通り、リナとガウリイは昼食にと普段とはひとケタ値段の違う高級レストランにきていた。高級といってもドレスコードなどは必要ない。庶民がたまの贅沢に食べにくるようなレベルだが、それでも店内はそれなりに着飾った奥様方が互いに見栄の張り合い話に花を咲かせている。
 魔道士協会の依頼をこなしたリナとガウリイは、いつもスズメの涙ほどの謝礼しかくれない協会が想像以上の謝礼金を出したことに浮かれ、たまには贅沢しようという庶民の発想に従い街で評判のこの店へとたどり着いた。潮風薫る漁港の街で海を眺めつつ新鮮な海鮮料理を楽しむのもなかなかオツである。
 それなのに、見慣れているとはいえ視界の端にやっかいごとの塊である魔族が映り込んでいてはせっかくの眺望も魅力半減だ。リナはこれみよがしに深いため息をもうひとつ吐いた。
「――アンタ、いっつも偶然っていうけど、これ立派なストーカーよ。ストーカー!」
「お邪魔してるつもりはありませんよ?」
「この会話であたしの食事スピードが一割減退してるところがすでに邪魔してるのよ」
「そんなに慌てて食べたら、ガウリイさんみたいに喉詰まらせちゃいますよ?」
「ンなわけ――って、ガウリイ!?あんたなに青くなってんのよ!」
 リナが視線をゼロスからガウリイに移すと、その先には顔を真っ青にしてチョークサインを出しぷるぷると体を震わせるガウリイの姿。リナが勢いよくその背中をぶち叩くと、彼の喉がごきゅりと音を立てる。
「ぶっはー!いやぁ、あんまりにもウマかったもんだからついつい入れすぎちまった。ははは」
「ははは、じゃないわよ!パスタ喉に詰まらせて死ぬなんて、光の剣の末裔の名が泣くわよ!一生笑いもんよ!」
「はは。それもそうだなー。あ、オレ新しい料理取ってくるから」
 まったく反省する様子もなく能天気に笑いながら、ガウリイは席を立ちかぐわしい香りが立ち昇る料理の方へと軽快に歩いて行った。

「――リナさんは舌が肥えていらっしゃるんですね」
陽気な男が抜け、テーブルに取り残された二人の沈黙を破ったのはゼロスの一言だった。
突然の言葉にリナは大きい目をぱちくりさせ、
「何よ、急に」
「いえ、さっきも隠し味を当てていましたから。そんなにわかるものなのかなぁと思いまして」
ゼロスの言葉にリナは料理をパクつきながら小首をかしげた。
人間臭い魔族は変なところに興味をもつ。今に始まったことではないにしろ、これが意図のあるものなのか、ただの暇つぶしなのか。見極めは必要だ。
「まあね。だてに数々の名物料理を食べてきたわけだし」
そう答えて、ふとリナの頭にひとつの疑問が浮かんだ。
「アンタたちって、生き物の負の感情を食べてるんでしょ?」
「ええ、まぁ」
「それって、おいしいとかまずいとかあるの?」
以前から思っていたことだが、あまりにもどうでもいい内容だったため、これまであえて話題にすることもなく。いかにも暇つぶしという雰囲気を漂わせ、リナは質問を投げかけた。
「おや、リナさん魔族についてご興味が?」
「……まぁ、興味はあるっちゃあるけど……」
 ニヤニヤしながら問い返すゼロスに、リナは「変な意味じゃないから」と光の速さで牽制をいれた。

 魔族のことについて書かれた文献は多い。だが、そのほとんどは夢物語が生んだ捏造品。当然である。一般人が魔族と出会い、会話し共に行動するなど、よっぽど特殊な状況下でなければありえない。ましてやこうして一緒に食事をするなど。その存在すら信憑性のない魔族の生態について興味を持つのは、好む好まざるに関わらず魔族と腐れ縁になりつつある彼女ぐらいのものだ。
リナも深く考えて発言したわけではない。ただ、知らないことは知りたい。経験したことないことは経験してみたい。学者肌である彼女の単なる好奇心――ただそれだけだった。
「そうですねぇ……味覚があるわけではありませんから、この人はトマト味、イチゴ味、とかはありませんけど」
 あごに手を当てうーんと唸り、意外にも真面目に返すゼロスに、リナは胸中で吹き出した。
 秘密主義のくせにたまにくだらない会話に付き合ってくれる。どれだけ暇なんだとツッコんでやりたいところだが、その人間臭さが彼を嫌いになりきれない理由のひとつなのだろう。何度煮え湯を飲まされようとも、彼は魔族なのだから仕方ない。そんな風に割り切れてしまっている自分に、リナは深く深く嘆息した。慣れとは恐ろしいものだ。
そんなリナの様子を気にするでもなくゼロスは言葉を続け、
「おいしいおいしくない、という表現よりかは、満たされるか満たされないかと言ったほうが近いかもしれませんね。あ、ちなみにリナさんは前者ですよ♪」
「ちーーっとも嬉しかないわよ!」
はっはっはと乾いた笑い声を上げ、ゼロスはスープの上に浮かんだガーリックスライスごと口の中へスプーンを運んだ。
「でも――人間って何味なんでしょうね」
「は?」
 唐突に変な方向に話がずれ、素っ頓狂な声をあげるリナ。
「僕に味覚があれば今ここで確かめることもできるんですが……残念です」
 頬杖をつき、ふぅと息をつくゼロスに、どうやって味を確かめようと思ったのかとツッコんでやりたかったが、経験上それは絶対に口にしてはならないと、リナはぐっと衝動をこらえ背筋を震わせた。
「ま、まぁ……人間は汗をかくからきっとしょっぱいわよ」
 リナが適当に相槌をうつと同時に、ゼロスの糸目がにやりと歪む。
「では、魔族はどんな味がすると思いますか?」
「精神生命体が何言ってんのよ。味なんかするわけないでしょ」
 冷めた目で間髪入れず反論するリナに、ゼロスはちっちっと指を振った。
「おや、誰かから聞いたことがあるんですか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「いけませんねぇ。先入観は人生を損させますよ?」
 そう言って、ゼロスはリナの目の前に自分の右手――正確には手首をすっと差し出した。リナは眉をひそめ、
「なによ、これ」
「ですから、味見をどうぞ」
「はぁ!?なにバカなこと言ってんのよアンタは!」
「ですが、他に肌が出ているところとなると首か顔になりますが……」
「場所の問題じゃなくて!なんであたしがアンタを味見しなくちゃならないのよ!」
「おや、知りたくはありませんか?」
 面白そうに告げるゼロスの言葉に、リナの耳がぴくりと動く。
「無機物にも味はあるのでしょう?砂の味とかいうじゃないですか。なら僕たちにも味があるかもしれません。なかなか出来ることじゃないですよ?魔族の味見なんて」
 まさに悪魔のささやきと言わんばかりのその言葉は、リナの人一倍旺盛な好奇心をくすぐるには十分だった。
 リナは眉間にしわをよせ、差し出されたゼロスの手をじっと見つめた。薄水色の手袋から山吹色の袖の間にちらりと見える肌色。そこで『味見』をする自分の姿を想像し、リナは頬を朱に染め口を真一文字につぐんだ。そんな恥ずかしいことできるはずがない。だがしかし、くだらないこととはいえゼロスの言うように先入観で物事を決めつけるのも好きじゃない。
 まだガウリイは戻ってきていない。まわりの客も自分たちの話に夢中でこちらを気にする様子もない。
 やるなら――今しかない!
 揺れる胸に覚悟を決め、リナは恐る恐るその肌色に自身の口を近づけた。
 ぺろっ。
 小さな舌を出しゼロスの手首を舐めたリナは、その瞬間、目を見開き驚愕した。
「――うそ……おいしい!?」
 ほどよい塩気といろんな旨味が凝縮された芳醇なコク。それは舌の先からじんわりと口の中に広がり脳から幸せホルモンが分泌されるほど。
 リナはその余韻に痺れつつ――次の瞬間「ん?」と眉根を寄せた。そして鼻をくんくんとひくつかせ、もう一度ゼロスの手首をぺろりと舐める。
 おいしい、確かにおいしい。だが、この味はどこかで食べたことがある。そして、手首から香るこの磯のにおい。
リナは自分たちのテーブルを一瞥すると、山積みになった平皿の上に置かれた空の器に目を止めた。
「……ゼロス」
「はい?」
「アンタ……スープこぼしたでしょ」
 じろりと睨みつけるリナに、ゼロスはわざとらしくぽんっと手を打ち、
「あぁ、そういえば先ほどご婦人とぶつかったときにスープが少し手にかかってしまいました」
「ぬぁぁにがそういえば、なのよ!アンタ、知っててわざとやらせたわね!」
 頭の後ろを掻きながら悪びれもなく言い放ったゼロスに、顔を真っ赤に染めたリナはその首をぎりりと締め上げた。
「では口で試してみますか?」
「アンタさっきスープのニンニク食べてたでしょーが!」
「二人ともなにやってるんだ?」
 減らず口の頬をみよみよ引っ張りながら、リナは声のするほうに顔を向けた。そこには両手に持った皿に山のように料理をのせ、頭に疑問符を浮かべるガウリイの姿。
「リナさんが魔族はどんな味がするのかと試していたところです」
「ちょっ!なに言うのよ!」
「リナ……おまえ……」
 ガウリイはリナの目をしばしじっと見つめ、どこか気の毒そうな面持ちで静かに告げた。
「とうとう普通の食事じゃ物足りなくなって、ついに魔族まで――」
「ンなわけあるかぁぁぁぁぁ!なにが悲しゅうてこんなゲテモノに手出さなきゃいけないのよ!」
「ゲテモノって……」
「ひどいですよ〜リナさん。さっきはあんなにおいしそうに僕のこと舐め」
「にゃああああ!それ以上言うなこの変態魔族ぅぅぅ!」
 結局、三人のやかましいやり取りは、ウェイターが食べ放題終了を告げに来るまで続いた。高い料金を払ったにもかかわらず、腹が六分目にしか膨れなかったリナが、その後ゼロスをシバキ倒したのは言うまでもない。


▼▼おまけ・後日談▲▲


おしみなく降り注ぐ暖かな陽光を、なでるように緩やかな風が吹き抜ける。風は森のように茂る常緑樹の木葉を優しくかき鳴らし、それと同時に射干玉のように艶やかな黒髪と太陽のように輝く金の髪をふわりと揺する。
鬱蒼とした木々に守られるかのように悠然とそびえたつ白亜の宮殿。その正面中央に位置する広大なバルコニーで、テーブルをはさみ向かい合うように座るのは二人の美女。テーブルにはシミしわひとつない真白のテーブルクロスが広げられ、並べられているのは一目で高級品と分かるアンティークのティーセットと見目にも麗しい菓子の数々。二人の間をすり抜ける風が甘く香ばしい匂いをまとい彼方へと運ばれていく。上質な茶葉を楽しむように優雅な所作でティーカップを口に運び、潤んだ唇からほぅっと艶っぽい息が漏れる。
「味見をされたそうだな」
中性的でありながら色っぽさも含んだ力強い声音が、穏やかな空間に凛と響いた。視線を自身の手元から動かすことなく、白銀のドレスを纏う金髪の美女はそう口を開いた。それと同時に、彼女の背後に佇む紫の影がびくりと体を震わせる。
「面白いことを考えますわね。魔族の味見だなんて」
ふふ、と口の端に笑みを浮かべ、黒髪の美女はその長い髪をかき上げ指に絡ませる。コバルトブルーにサファイアとパールをあしらった清楚なドレスの肩口にさらさらと髪がこぼれ落ち。
彼女はそのままテーブルに並べられた焼き菓子をひょいっとつまみ、目の前の同僚の顔をじっと見つめた。
「ゼラスちゃんは獣臭そうですわね」
「ダルフィンは生臭そうだな」
両者とも互いの軽口にふふ、はは、と笑い声を上げたが、その双眸は全く笑っていなかった。
風が止み、大気がちりつく。紺碧の瞳と紫暗の瞳が交錯し静かに散る火花に、後ろで次の一杯を用意している影は『それは味というよりにおいでは?』と横やりを入れることもできず、カタカタと手を震わせた。茶壷からすくった茶葉がティーポットの中へおさまることなくさらさらと脇にこぼれていく。
「それで、どうだったんだ?ゼロス」
突然主に名を呼ばれ、影のぎこちない笑みがさらに歪む。
「どう、とは……?」
「だから、どんな味だったんだ?」
「ええっと、それが……結局分からずじまいで……」
言えるわけがない。わざとこぼしたスープで相手の反応を楽しんでいただけだ、などと。ゼロスはわずかに頬をひきつらせしどろもどろに言葉を濁した。
まさかこんなことに興味を持たれるとは思ってもいなかった。それよりも、いったいこの話をどこで聞きつけたのか。自分の主でありながら、面白そうな話題は決して逃さないその耳の速さにゼロスはあらためて畏怖する。
情けない声を出す部下を肩越しにふり返ることもせず、ゼラスは静かにティーカップをソーサーに戻した。かちりと陶器の重なる音が張り詰めた重い空気を助長させるかのように響く。
(ちょっと遊びすぎちゃいましたかね……)
無言の圧力ほど恐ろしいものはない。何が主の癇に障ったのかはわからないが、これはお叱りをいただくパターンだと、ゼロスは出るはずのない汗が全身から吹き出すかのような感覚に襲われた。
ゼラスの長く細い指が再びカップに――ではなく、隣に置いてあった愛用の煙管へと伸びる。とっくに色を失った火種に、自身の魔力で生み出した炎で再度火をつける。
「――もう一回行ってこい」
「……は?」
想像していたのとは真逆の言葉に、ゼロスの糸目が点になった。
ゼラスはそこでようやく上半身をひねり、ゼロスに視線を移した。足の付け根までざっくりと開いたスリットからすらりと伸びた足を組み直し、緩やかに湾曲する背もたれの上に左腕を這わせ気だるげに微笑む様は、まるで艶美な獣のよう。
「これは我らが己のことを知るまたとない機会。――不本意だが、この問題は我々だけで解決できるものではないからな。もう一回味見してもらえ。なんなら少しくらいかじられてこい。答えが出るまで、帰ってこなくてよろしい」
お咎めどころか乗り気全開のゼラスの命令に、ゼロスは口をぽかんと開けたままその場で固まった。
「どうした。早く行ってこい」
「は、はい!」
新しい香茶の準備も終えぬまま、追い立てられるようにゼロスは急ぎ虚空へと姿を消した。


「――ホント、素直じゃないんだから。ゼラスちゃんは」
「なんのことだ」
ゼロスの気配が完全に消えた後、ダルフィンはくすくすと笑いながらそう呟いた。しれっとした表情で、ゼラスはうつむき煙管を口にくわえる。
「でも、あんまり人間に近づけすぎるのもどうかと思いますわよ。いい前例があったためしがありませんし」
静かな笑みを浮かべながらやんわりと窘めるダルフィンに、ゼラスはふんっと鼻を鳴らした。
「いらぬ心配だ。あれのことはわたしが一番よく知っている」
横を向いたままゆっくりと息を吐き、細く長い紫煙を遊ぶように燻らせる。
「どのような選択をしようとも、あれが最後に選ぶのは――このわたしだ」
動揺などみじんもない力強い言葉。確信にも近い光をたたえた部下と同じ紫暗の瞳。
ダルフィンはそんな彼女の顔をまっすぐ見つめながら、すでに冷めつつある香茶を一口含んだ。その傲慢ともとれる気高き意思こそ、ダルフィンにとっては何よりも興をそそられるものだった。
「強気ですわね」
「当然だ」
吐き出された煙は再び吹き始めた風にさらわれ、先ほどまで部下が佇んでいた蒼天の下へと吸い込まれるように消えゆく。
「……たとえあれが変わろうとも……あれは獣神官≪わたしのもの≫だからな」


「お願いしますよ〜リナさ〜ん」
「っだああああ!うっとうしい!ついてくんな!」
「リナさんが味見してくれないと、僕おうちに帰れないんですよ〜」
「そんなの知ったこっちゃないわよ!だいたいなんであたしなのよ!犬にでも舐めてもらえ!」
「犬は喋れないじゃないですか」
「真面目か!アンタ魔族でしょ!そのぐらい自力でなんとかしなさい!」
「お願いしますよ〜。先っちょだけでもいいので」
「卑猥な言い方するなぁぁぁこの変態ゴキブリ魔族がぁぁ!」
全力で街道をひた走るリナの後を、人差し指を突き出した楽しそうな困り顔がどこまでもついていく。リナの好奇心が生んだ災難は、当分の間どこまでもつきまとうのであった。


〜fin〜
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